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浦和地方裁判所 昭和60年(わ)1008号 決定

主文

本件予備的訴因の変更は、これを許さない。

理由

第一  本件予備的訴因変更請求の内容とこれに対する弁護人の意見の要旨

一  昭和六〇年八月九日付け起訴状記載の本件公訴事実は、「被告人は、東京○○株式会社の派遣社員として埼玉県浦和市高砂一丁目一五番一号所在の株式会社伊勢丹浦和店で衣類の販売に従事していたものであるところ、昭和六〇年七月一六日午後一時ころ、同店五階医務室において男児を分娩したが、同児が婚外子であり、それまで自己の懐妊事実を両親や勤務先の同僚等に隠し続けていたため、同児を分娩した事実の発覚をおそれるとともに、同児の処置に窮し、同児を殺害しようと決意し、右分娩直後、ベッド上に横臥する同児の頭部、顔面に自己の右大腿部を乗せて押し付け顔面等を圧迫し、よって、そのころ、同所において、同児を窒息により死亡させて殺害したものである。」というものであるところ、検察官は、右公訴提起から満三年(第一回公判期日からは二年一〇月)を経過した昭和六三年八月一二日、右訴因を予備的に「………同児を殺害しようと決意し、右分娩直後、羊水や血液などの貯留したベッド上にうつ伏せになっていた嬰児は、ただちに自らまたは他人の手を借りて介護しなければ死に至ることを認識し、かつ容易に看護婦らに助けを求めてこれを介護し得たのであるから、被告人としてはかかる措置をとるべき義務があるのにかかわらず、その処置をしないで、右嬰児を放置し、よって、そのころ、同所において、同児を窒息により死亡させて殺害したものである。」と変更する旨の予備的訴因変更請求書を提出した。

二  これに対し、弁護人は、同月一七日付け「訴因変更請求に対する意見」と題する書面により、右訴因変更請求は、「著しく時機に遅れたものであり、被告人の地位を甚だしく不安定にし、その迅速な裁判を受ける権利を侵害するものであって、訴訟追行上の信義則に違反するものであるから、とうてい許されない。」として、強く異議を述べた。

第二  訴因変更請求に至るまで及びその後の本件訴訟の経過

一  そこで、まず、右訴因変更請求に至るまでの本件訴訟の経過を記録によってみるのに、その概略は、次のとおりである。

すなわち、

(1)  検察官は、第一回公判期日(昭和六〇年一〇月二日)において、弁護人の求釈明に応えて、公訴事実にいう「頭部」「顔面」「顔面等」とは、その部分全体を指すものであって、特に当該部分は特定していない、「窒息」の原因は鼻口部閉塞または胸部圧迫ないしはその両者である旨釈明した。これに対し、被告人は、自分の「足が子供に触れているのはわかっていたが、どの部分に乗せたかわからない。私としては、意識的に子供の頭とか顔に足を乗せたことはなく、子供を殺そうと思ったことはない。」旨殺害行為及び殺意を否認する陳述をし、弁護人もほぼ同旨の陳述をしたが、弁護人は、特に、本件被害者の死因として、分娩の際、被害者が気道内に羊水を吸引したか、ベッドに敷かれたマット、毛布等により鼻口部を閉塞されたため事故死した可能性を指摘し、かりに、被告人の足が被害者の身体上に一時的に乗せられていたことが同人の死に何らかの原因を与えていたとしても、被告人には殺意がないから、その刑責は過失致死の限度に止まる旨主張した。そして、弁護人は、第六回公判期日(同年一二月一七日)において、右主張を具体的に敷衍する冒頭陳述を行い、特に、死因については、「羊水吸引による窒息死」の蓋然性が極めて高いこと、鼻口部閉塞が死因であると仮定しても、それが被告人の身体の圧迫によるとは限らないこと、更に、鼻口部閉塞が被告人の身体によって引き起こされたものだと仮定しても、被告人には被害者を殺害しようとする意図は全くなかったことなどを強調した。

(2)  その後、本件については、被告人の出産の直前及び直後の状況を見聞した目撃者の証人尋問、被害者の死因等に関する鑑定書及び鑑定人の取調べ、被告人の自白調書の任意性に関する立証、並びに出産に至る経緯及び出産状況等に関する被告人質問などが行われ、検察官の前記予備的訴因変更請求までに、計二七回の公判期日が重ねられた。

(3)  前記のとおり、弁護人は、本件訴訟の冒頭においては、被害者が生産児であった事実を明らかには争っておらず、むしろ、生産児であることを前提とする主張をしていたとみられるが、その後の証拠調べの過程において、被害者が生産児であったこと自体にも疑問を提起し、第一八回公判期日(昭和六一年一二月三日)には、死産、仮死産の可能性等に関する鑑定の申請をし、更新前の当裁判所は右鑑定の必要性を認め、藤田学園保健衛生大学医学部法医学教室教授黒田直に対し、右の鑑定を命じたところ、同鑑定人からは、同六二年三月一〇日付けで鑑定書が提出された。

(4)  その後、更新前の当裁判所は、弁護人申請にかかる「分娩の予想、経過、出産の前後の精神的肉体的状態、介助なしの出産、嬰児の状態」に関する口頭鑑定の必要性を認め、第二四回(昭和六二年一〇月一四日)及び第二五回(同月二八日)各公判期日に、至誠堂病院医師鈴木直樹を鑑定人として尋問した。

(5)  更に、更新前の当裁判所は、第二六回公判期日(昭和六二年一一月一一日)において、職権により、国立病院医療センター国際協力部部長医師我妻堯に対し、「出産事故による被害者の死亡の可能性」に関する鑑定を命じたところ、同鑑定人からは、同六三年三月二〇日付けで鑑定書が提出されたので、当裁判所は、第二七回公判期日(同年七月一九日)において、更新手続ののち、右鑑定書を双方の同意のもとに取り調べ、同人を公判期日外で証人として取り調べる旨の決定をした。検察官の本件予備的訴因変更請求がなされたのは、右鑑定書を取り調べた公判期日の約三週間後のことである。

(6)  なお、右更新手続の段階において、本件本位的訴因に関し双方が予定していた立証は、我妻鑑定書及び我妻証人の各取調べのほかには、検察官による補充的な被告人質問のみであり、本件訴訟は、ほぼ終結に近い状態にあった。

以上のとおりである。

二  次に、予備的訴因変更請求後の本件訴訟の経過は、次のとおりである。すなわち、

検察官による昭和六三年八月一二日付け予備的訴因変更請求に対し、弁護人から、同月一七日付けで、前記の趣旨の詳細な意見書が提出されたため、当裁判所は、右請求に対する許否の決定をひとまず留保して同月二三日、公判期日外において鑑定書の内容等につき我妻医師を証人として尋問する一方、検察官に対し、同月一八日及び九月五日、再度にわたり、別紙1、2の内容の釈明命令を発したところ、検察官からは、九月二日付け及び同月一二日付けで別紙3、4の内容の釈明書が提出された。

第三  訴因変更の時期的限界に関する当裁判所の基本的見解

一 刑訴法三一二条は、公訴事実の同一性を害しない限り、裁判所は、検察官の訴因変更を許可しなければならないとし(一項)、ただ、右変更が「被告人の防禦に実質的な不利益を生ずる虞があると認められるとき」は、必要な期間公判手続を停止しなければならない旨規定している(四項)。右規定だけからみると、法は、訴因変更の許否に関し、「公訴事実の同一性」以外に何らの制限を設けていないようにも考えられるが、訴因変更が許可されることにより被告人の受ける不利益が、公判手続を停止しただけでは回復することができない重大なものであると認められる場合には、かかる訴因変更は、たとえ公訴事実の同一性の範囲内のものであっても許可されるべきではなく、このことは、同法三一二条が暗黙のうちに当然の前提としているところと考えられる。

二 それでは、右にいう「訴因変更が許可されることにより被告人の受ける不利益が、公判手続を停止しただけでは回復することができない重大なものであると認められる場合」とは、どのような場合をいうと考えるべきであろうか。当裁判所は、これに次のような二つの場合があると考える。

(1) まず、新訴因への変更を認めると、被告人が、従前の訴訟の経緯、弁護人の反証活動の内容等に照らし、純粋に防禦上の観点からみても、著しい不利益を受ける場合があり得ると考えられる(以下、これを「第一の類型」という。)。例えば、(ア)検察官が、当初乙訴因は主張しない旨明言していたため、弁護人側が、これを信頼して本来の甲訴因に対する防禦活動を積み重ねてきたのに、のちに検察官が、前言を撤回して乙訴因への変更を請求したとしよう。弁護人がした甲訴因に対する反証の中に、事実上乙訴因の立証に役立つものが混在している場合があり得るから、検察官が、右証拠を援用して乙訴因を主張することを許すことになると、弁護人側としては、乙訴因に対する防禦方法に窮する結果となるのであって、かかる訴因変更を許すことは、被告人に対する一種のだまし打ち(結果的にではあるにしても)を認めることになりかねず、相当でないことは明らかである。また、(イ)検察官が、乙訴因を主張しない旨明言していない場合でも、甲訴因に関する立証の成功する蓋然性が乏しいことが明らかになったのに、検察官が長期間事態を放置していた場合のように、訴訟の経過及び証拠関係等に照らし、検察官による乙訴因への訴因変更はあり得ないと信じるに足りる情況が存し、弁護人が、その旨の信頼のもとに反証活動を行ってきたときも、右(ア)の場合とほぼ同様に考えてよいであろう。そして、右(ア)、(イ)の場合のように、訴因変更による被告人側の防禦上の不利益の著しい場合は、必ずしも、審理期間の絶対的な長短及び当該訴因変更請求がなされた時点における訴訟の進行段階(最終段階にあるか否か)などにかかわりなく、訴因変更は許されるべきでないと考える。(これに対し、右(ア)、(イ)のような事情がなく、甲訴因に対する弁護人の防禦活動が、新たな乙訴因に対する防禦活動としても実質的に有意義である場合、あるいは、右防禦活動が、乙訴因に対する防禦活動と矛盾・抵触せず、かつ、乙訴因に対する新たな反証の収集にさしたる支障を来たさない場合には、訴因の変更による被告人側の防禦上の不利益はそれほど重大であるとはいえないから、これを許さざるを得ないことが多いと考えられる。)

(2) 次に、右のような著しい防禦上の不利益が存しない場合であっても、新訴因への変更を許可して、被告人をこれ以上被告人の地位に止まらせること自体が、被告人に対し本来受忍すべき以上の甚だしい精神的苦痛・緊張等を強いることとなり、憲法三七条一項所定の迅速裁判保障条項の趣旨に反する結果となる場合があり得るのであり、かかる場合も、訴因変更を許すべきでないと考える(以下、これを「第二の類型」という。)。具体的にいかなる場合がこれにあたるかは、当該事案の罪質・規模・態様・証拠関係、訴因変更請求がなされるまでの審理の経過及び審理期間の長短、右請求がなされた際の訴訟の進行段階、新訴因にかかる犯罪の軽重、右訴因変更を許可した場合の審理の見通し(予想される審理期間の長短及び有罪判決の得られる蓋然性の程度)など諸般の事情を総合し、究極的には、憲法三七条一項の迅速裁判保障条項の趣旨に照らして決するほかはないが、ごく一般的にいえば、新訴因にかかる犯罪が重大で、しかも、さしたる期間を要せずして右訴因につき有罪判決の得られる蓋然性があれば、多くの場合、従前の審理に要した期間が多少長くとも、訴因変更を許可すべきこととなろうし、逆に、新訴因にかかる犯罪が旧訴因に比して著しく軽微であるとか、重罪であっても、有罪判決の得られる蓋然性が小さいときなどは、従前の審理期間が著しく長期にわたっているとまではいえなくても、訴因変更を許可すべきでないことが多いであろう。

第四  本件訴因変更の許否について

一  そこで、右のような見解に基づき、以下、本件における訴因変更の許否について検討することとする。

前記第一、第二各指摘のとおり、本件は、当初、嬰児殺人(作為犯)の訴因(以下「甲訴因」という。)で起訴された被告人が、(1)殺意、(2)殺害行為、(3)被告人の行為と嬰児の死との因果関係、(4)右嬰児が生産児であったか否かなど、公訴事実記載の日時場所において被告人が嬰児を分娩したこと以外の事実をことごとく争い、同児はそもそも死産児又は仮死産児であって、生産児であったとしても事故死したものであるなどと主張し、右主張に副う反証活動を積み重ねてきた事案である。ところで、検察官は、起訴後満三年、第一回公判期日から約二年一〇月を経過し、審理がほぼ終結に近づいた段階において、予備的に、不作為による嬰児殺人の訴因(以下、「乙訴因」という。)への変更を請求してきたものではあるが、記録を精査しても、検察官が従前の訴訟追行の過程において、乙訴因を主張しない旨明言した経過は見当らない。また、記録によれば、本件において、嬰児が仮死産児であった可能性が弁護人により明確に指摘されるようになったのは、第一八回公判期日(昭和六一年一二月三日)における弁護人の鑑定請求以降のことで、しかも、右の可能性ひいては嬰児の事故死の蓋然性が、証拠上必ずしも軽視し難いものとなったのは、第二四回公判期日(同六二年一〇月一四日)における鑑定人鈴木直樹の尋問以降のことであること、右鈴木鑑定以降は、前記のとおり我妻鑑定や裁判所の構成の変動に伴う更新手続等のため(なお、検察官自身の更てつもあった。)、検察官及び弁護人の実質的な訴訟活動は行われていないこと、検察官の本件予備的訴因変更請求は、前記我妻鑑定書の取調べ後遅滞なく行われていることなどが明らかであって、これらの点からすると、本件については、乙訴因への訴因変更はあり得ないと信じるに足りる情況が存したということはできない。また、本件における弁護人の従前の反証活動中に、乙訴因に対する防禦活動として実質的に障害となると考えられるものは存在せず、むしろ、右反証は、そのほとんどが、甲訴因に対してのみならず乙訴因に対する関係でも、そのまま反証として役立ち得ると認められるのであって、乙訴因への訴因変更が認められたからといって、被告人側が、前記第三、二(1)(ア)(イ)に指摘したような(又は、これに準ずるような)防禦上の著しい不利益を受ける結果となるとは考えられない。以上のとおりであるから、本件は、当裁判所が訴因変更を許可すべきでないと考える前記第一の類型には、該当しないというべきである。

二  そこで、次に本件が、当裁判所が訴因変更を許可すべきでないと考える前記第二の類型に該当しないか否かについて検討する。

くり返して指摘したとおり、本件訴因変更請求は、起訴後満三年、第一回公判から約二年一〇月を経過し、二七回公判を重ねて検察官・弁護人の双方が攻撃防禦を尽くし、三回もの鑑定を経て、ようやく結審の目途がついた段階においてなされたものであって、右審理期間は、決して短かいとはいえないが、新たに変更請求された乙訴因が不作為によるとはいえやはり殺人という重大事犯にかかるものであること、変更後の訴因の立証のため、検察官は、証人一名(赤岩ひで子、尋問予定時間約三〇分)のほか、若干の書証の取調べを請求しているに止まり、右検察官の立証のためには、せいぜい一期日を予定すれば十分であると考えられること、前記一指摘の事情によれば、本件における検察官の訴因変更請求の時期が、訴訟の経過に照らし著しく時機を失しているとまではいえないことなどからすれば、右検察官の立証に対し、更に弁護人側の再反証のため若干の期日を予定しなければならないことを考慮に容れても、本件は、前記第二の類型にも一見該当しないかのように考えられないではない。

三 しかしながら本件については、乙訴因への変更を許可してみても、乙訴因により有罪判決の得られる蓋然性が著しく低いという特殊な事情の存することに注目する必要がある。すなわち、検察官の変更請求にかかる乙訴因は、前記のとおり出産直後の被告人が、嬰児の生命を救うため、直ちに自ら又は他人の手を借りて同児を介助すべき作為義務に違反し、殺意をもって事態を放置し、同児を死に至らせたというものであるところ、右訴因につき被告人を有罪と認めるためには、(1)被告人に右訴因指摘のような作為義務の存すること、(2)被告人が容易に介助を求め得る状態にありながら事態を放置したこと、(3)被告人が殺意を有していたこと、(4)被告人の不作為と嬰児の死との間に因果関係の存することの四点が、証拠上すべて肯定される必要があると解される。

ところで、本件嬰児の体重や胎盤の重さ及び出産状況に関する諸般の証拠に照らすと、本件嬰児が仮死状態で出生した蓋然性が高いと考えられることは、産婦人科の医師ないし学者として多年の経験を有する前記鈴木鑑定人及び我妻証人が一致して明言しているところ、右両名の供述等によれば、仮死状態で出生した嬰児は、出生直後に適切な介助及び蘇生術を施されない限り、数分ないし十数分(あるいは、せいぜい二〇分程度)でほぼ確実に死に至るとされているのであるから、本件において、被告人が分娩直後に第三者の介助を求めなかったという不作為と嬰児の死との因果関係を肯定し得るためには、少なくとも、被告人が出産直後に第三者の介助を求めた場合に、仮死状態の嬰児の生命を維持するために最少限必要な介助及び蘇生術が直ちに施され得る人的・物的条件が存在していたことが必要とされることは、当然のことである。そして、前掲我妻供述によれば、仮死状態の嬰児の生命維持のためには、最少限度、気道内の粘液等を素早く吸引して嬰児の気道を確保した上で直ちに蘇生術を施す必要があり、右のような応急の措置が施されない限り、救急車等により専門病院へ嬰児を搬送してみても、嬰児の死の結果はこれを回避し難いこと、右応急の介助及び蘇生術は、技術的にきわめて困難なもので、そのための特別な訓練を受けた専門家(産婦人科医又は助産婦)が、専用の器具(気管カテーテル及び新生児蘇生器)を使用して初めて適切に施し得ることなどが明らかにされている(右供述に反する証拠は、存在しない。)。従って、本件において、検察官が予備的訴因につき合理的疑いを越えた立証をしようとすれば、当然、右我妻供述を踏まえた上で、本件医務室内又はその付近に、右介助等の技術を有する人物及びそれに必要な器具が存在していた事実を主張・立証するか、あるいは、他の専門家の証言等により右我妻供述自体の信用性を争う必要があると考えられる。しかるに、検察官は、当裁判所の再度にわたる釈明命令に対しても、介助が容易に得られる状況であったことを示す具体的事実関係として、被告人の分娩当時、医務室内に医師山口芳三郎、看護婦で助産婦の資格をも有し分娩介助等の経験を有する赤岩ひで子等が在室し、被告人が介助を求めれば、同人らが速やかに本件嬰児を介助し、応急の処置をして救急車を手配するなどし、専門の医療機関に嬰児を搬送できる状況があった旨の事実を抽象的に指摘するに止まり、釈明書中の「予備的訴因の立証計画」欄にも、右医務室内又はその近くに、仮死状態の嬰児の介助及び蘇生術に最少限必要とされる前記器具が存在していた旨の記載はもちろんないし、また、前記山口、赤岩らが右器具なしに仮死産児の生命を維持するための特殊な技術を有していたとしてその具体的方法を指摘するなど、検察官において、前記我妻供述に対する的確な反証を提出する用意があることを窺わせる記載も見当らない。仮死産児の生命を維持するために最少限必要な器具の点に関する前記我妻供述は、当裁判所の補充尋問に対して明確、かつ、ほぼ断定的になされたものであって、検察官が右質問・応答の意味を理解し得ない筈はないから、それにもかかわらず、検察官が、当裁判所の釈明命令に対し前記の程度の釈明しかしていないということは、検察官自身、右器具が医務室内又はその付近に存在した事実又は右器具なしに仮死産児の生命を確実に維持し得る具体的な方法が存在した事実を各立証し得る証拠を有していない旨自認したにも等しいといわなければならない。(もっとも、我妻供述中に、本件嬰児の仮死の程度が比較的程度の軽いものであったのではないかと窺わせる部分の存することは事実であり、他方、検察官の我妻証人に対する尋問中には、軽い仮死の場合には、嬰児の生命の維持に必ずしも器具は必要ないのではないかとの趣旨の部分がある。右の点からすると、検察官は、本件嬰児の仮死の程度が軽かったことを前提として、そのような場合には、器具を使用しないでも嬰児の生命の維持のための応急の措置が可能であると考えているのではないかと想像できないこともない。しかし、検察官の前記尋問に対する我妻証人の応答は、「非常に難しいと思う。」というものであって、これに続く同証人の供述を全体として考察しても、これが、嬰児の仮死の程度が軽い場合には、器具を使用しないで行う応急の措置により、確実に死の結果を回避し得るとする趣旨のものとは到底解せられないのであるから、もし検察官が、仮死の程度が軽い場合における嬰児の生命維持の蓋然性につき、右我妻供述と異なる前提に立とうとするのであれば、当裁判所の釈明に対しその旨明確に主張し、他の専門家の証言等により同供述の信用性を争う構えを見せるのが当然であると解せられるのであって、検察官が現実にかかる態度に出ていないのは、前記我妻供述に対する的確な反証を提出することの困難性を検察官自身が自認しているからであると考えるほかはない。)

このようにみてくると、かりに本件予備的訴因変更請求を許可し、検察官に対し、その申請を予定する証人等による新たな立証を許してみても、これにより予備的訴因につき、既存の証拠と併せ被告人を有罪と認めるに足りる立証がなされる蓋然性は、その余の問題点(例えば、分娩直後、被告人が直ちに第三者の介助を求め得る精神的・肉体的状況にあったか否かなど)を別としても、著しく小さいといわざるを得ないのであって、右の点を本件予備的訴因変更請求に至る経緯及び右請求の時点における本件訴訟の進行段階等前記二記載の事情と併せ総合して考察すると、結局、予備的訴因の変更の請求は、当裁判所の想定する前記第二の類型に該当することに帰着し、これを許可すべきでないと考えられる。

第五  結論

以上のとおり本件予備的訴因変更請求は、これを許可すべきでないと考えるので、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官木谷明 裁判官木村博貴 裁判官水野智幸)

別紙1、2、3、4〈省略〉

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